

タイトルに説明がいるだろう。肥前山口はJR長崎線で、長崎行きと佐世保行きの分岐点になっている駅の駅名である。農村を背景にした駅だから、分岐点という以外、これという特色はない。しかし、この駅は私にとっては人生の分岐点だった。
毎年8月9日が近づくと、私は伊東誠二君のことを思い出す。 そして、タイムトンネルを通って65年前に戻って彼に会う。
私と伊東君は日本が太平洋戦争に敗れたその年に旧制の高等学校に入学、寮の同じ部屋に寝起きすることになった。私は九州の旧制中学の出身だが、伊東君は旧制東京都立一中(現在の都立日比谷高校)卒で、質実剛健で泥臭い私なんかに比べると、みるからにスマートで垢抜けしていた。「いま読んでいるんだ」とみせてくれたのは西田幾太郎の『善の研究』で、私はこの著書はもちろん、京都大学教授で、高名な哲学者の名前すら知らず、「何だ、それは」ときく始末だったが、彼は軽蔑した素振りなどまったくなく、至極真面目な顔で、西田哲学のことを無知な田舎者に話してくれたのだった。以来、私と伊東君は親密の度を深め、無二の親友になった。
日増しに戦局は日本にとつて悪化の一途をたどり、我々にも学徒動員令が下って、学業を捨て、工場で働くことになった。動員先は、佐世保の海軍工廠と、長崎の三菱造船所ということで、一年生の二クラスは、佐世保組と長崎組にわかれることになったが、日本有数の軍港で、毎日のようにアメリカ軍艦載機の空襲を受け、しかも海軍の管理下で、規律の厳しい佐世保と戦時下とはいえ、ロマンの香りがただよい、規律のゆるやかな民間企業で働ける長崎とでは、雲泥の差以上である。それを察した学校は一組と二組の代表にくじをひかせて決めることにした 私は一組、伊東君は二組だったから、ここで二人が別々になることは運命づけられたのである。私も、伊東君も当然ながら長崎行きを切望した、伊東君は幼馴染の女の子が、長崎の活水(現在の活水女子大)にいるからという、理由もあったようだった。 そして、くじの結果は一組が佐世保、二組が長崎にきまった。その夜私は近い死を想い、故郷の母に遺書を書いた。伊藤君は私の心情を察してだろう一度も口を開かなかった。
8月はじめの猛暑の日、長崎、佐世保の動員組は佐賀駅から長崎、佐世保行きの汽車に乗った。 列車の前半分が長崎行きで、後半分が佐世保行き、肥前山口まで一緒に行って、そこで長崎行きと佐世保行きに分かれ、それぞれの目的地を目指すわけだ。
切り離されて、佐世保行きのプラットホームに止まった列車の窓際になんとか席をえて、ぐったり座り込んでいたら、窓の外から私を呼ぶ声がする。伊東君であった。
「ようっ伊東」と元気のない声でそちらを向いたとたん、発車のベルが鳴り、私の乗っている佐世保行きは動き出した。と、伊東君が叫んだ「元気でな」そして「悪いなぁ」 手を振っただけで、返す言葉はでないまま、私は彼と別れた。
「悪いなぁ」は私が不運にも佐世保へ行き、彼が幸いにも長崎に行けるのは申し訳ないという謝辞である。仕方ないことだが、そのときの彼としては、精一杯の表現だったのだろう。
たどり着いた軍港佐世保には、軍艦の姿はなかった。わずかに古びた海防艦が一隻停泊しているのと、燃料切れで動けなくなった潜水艦が3隻、岸につながれているだけだった。
われわれ新入り動員学徒は水兵のいなくなった海軍の宿舎に入り、大豆粕の食事をあてがわれ、課せられた仕事は、その動けなくなった潜水艦の機関砲をはずして、山の上に運び上げて、対空陣地を構築することだった。
大きくて重いスパナーを持って機関砲をはずしていると、空襲警報のサイレンが鳴り、上空を乱舞するグラマンやロッキード戦闘機の銃撃を受けながら、防空壕に逃げ込む毎日で、仕事はなかなかすすまなかった。
それでも何門かの機関砲を山の上に構築された対空陣地に運びあげ、最後に機関砲弾を運び終えたのが、8月9日11時ごろである。
その日、めずらしく、佐世保にはアメリカ軍艦載機による空襲はなかった。重い機関砲弾を運び上げ、くたくたになったわれわれ動員学徒は、陣地のへりに腰をおろして、見るともなしに、長崎の方向をみていた。 と、山の向うに稲妻のような閃光が走った。「なんだ、あれ」誰の答えもでないまま、数秒たって、「ぐおん」と大音響がひびき、黒いきのこ雲がもくもくと立ち上がった。 それが長崎に投下された原爆と知ったのは8月15日の終戦後のことである。
広島に新型爆弾が投下され、甚大な損害を蒙ったことは報道されていたか、原爆とは知らされてなかったし、核分裂のことなども、知る由もなかった。
2日くらいして、長崎にも新型爆弾が投下されたらしいこと、ひどい被害を受けたこと、学友の何人かが死んだことなどが途切れ途切れに伝わってきたが、この原爆で伊東君が死んだのを知ったのは8月15日の終戦後のことである。
彼は屋外で作業をしていて被爆、救急所に運ばれて、「熱い、熱い」といいながら死んだそうだ。
もし、クラス代表が長崎行きのくじを引いていたら、私が「熱い、熱い」といいながら原爆死していただろう。幸運を引き当てた伊東君が死に、不運を引き当てたつもりの私が生き残った。以来、私は運命論者になった。
運命論者の定義はよく知らないが、目標に向って最善の努力をして、達せられないときは、運命と思って、成り行きにまかせ、あきらめることと勝手に解釈している。
大学を卒業して入社目標にした会社の入社試験に落ちたときは、「この会社は、向いてないのだな。ここに入社しないほうがいいのだな」と綺麗さっぱりあきらめた。
入学、入社、結婚、すべてがその考え方で、後輩から相談を受けても同じで、「ベストを尽くせ。しかし目的が果たせないときは、あきらめろ。そのほうがいいのだ」とこたえる。これが肥前山口から教えられた私の信条である。
40歳のはじめ、私はある会社の人事課に所属していた。人事課が一年で一番大変なのは、3月の定期採用である。 その年は不況で、約100人の採用に5倍近い応募があったと記憶している。応募者は皆入社を望んでいるけど、それは不可能なことは明々白々、試験場に集まった受験生を何とか納得させたい、そんな気持ちから私は挨拶に立った。
「受験生の皆さん、私たちにとって一番つらいのは、不合格通知を出すときですが、私は不合格になられた方は、この会社に入られるよりよりよい人生を歩まれるチャンスを得られたと思って通知を出します。受け取られたら、そう思ってください」
受験生はきょとんとして聞いていたが、挨拶の内容が歪曲されて会社の上層部に伝わったらしい。翌日総務部長から呼び出しがあって、「君の挨拶が問題になっているから、いまのうちに社長と専務に詫びておいたほうがいい」と忠告してくれた。
それを聞いたとき、私の脳裏に肥前山口のプラットホ-ムと原爆死した伊東君があらわれた。「そうだ、俺は長崎へは行けないんだ。また佐世保へ行ってがんばるよ、伊東君」。翌日私は会社に辞表を出して脱サラの第一歩を踏み出した。 (筆者は当社顧問)