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歴史寸描

歌は世につれ

日本の百年  しりとり言葉にみる世相

百年に一度の大不況だといわれているが、百年にこだわると意味が分かりかねる。現在の世界経済は100年前とくらべると、規模も内容も異なっているし、100年前の日本はようやく資本主義国の仲間入りをしたばかりで、まだまだ封建主義の残滓を引きずっていたから、現在と比較のしようがない。多分、空前絶後ということだろうと解釈している。
しかし、百年という言い方にはそれなりの味があるから、発言された「百年に一度居士」に敬意を表して、この際、百年前にもどりって日本を覗いてみるのも一興かと、机上のタイムスリップを試みた。

日本勝った ロシア負けた

日露戦争が終結したのが、103年前である。超大国ロシア帝国の陸、海軍を打ち破る大勝利に日本中は沸きに沸き、「日本勝った。日本勝った。ロシア負けた」と進軍ラッパのリズムにのせた民衆の喜びの歌声が日本の津々浦々まであふれた。日露戦争後に登場、いまも、われわれが着ているカッターシャツは「勝ったーシャツ」と命名され、後日「カッター」になったとか。
当時はやされたしりとり言葉。
「陸軍の」「乃木さんが」「凱旋す」「すずめ」「めじろ」「ロシア」「野蛮国」「クロパトキン」「きんたま」「マカロフ」「ふんどし」「しめた」「高ジャッポ」「ぽん槍」
乃木さんは、陸軍大将乃木希典、第3軍司令官として転戦、旅順の203高地攻略で名を上げる。夫人とともに明治天皇に殉死。
クロパトキンはロシアの陸軍大将で、極東軍の司令官。
マカロフはロシアの海軍中将。極東海軍司令官。黄海海戦で戦死した。
高ジャッポは儀式に用いる山高帽のこと。
ぼんやりは、槽術の練習に使う槍、樫の棒の先端に丸めた綿を載せ、皮で包んだので、たんぽん槍といわれ、略してぼん槍になった。

米軍機の爆撃で、各都市は焦土と化して多くの非戦闘員が死に、食料難にあえいだ太平洋戦争とくらべると、日露戦争の主舞台はいまの中国東北部で、日本本土には直接戦争の影響がなかったし、徴兵制は敷かれ、戦死者もでているのだが、まだまだ士族、平民の封建的身分が生きていて、民衆にとって、戦争はあるていど客観的な出来事だったようにみえる。プレーヤーではなく、サポーターだったのだ。日露戦争の大勝利が太平洋戦争の敗戦につながった。せめて引き分け程度で終わっておれば、日本は別の道を選んだに違いないという説がある。歴史に「もし」「だったら」という仮定は禁物だが、そうかも知れない。
太平洋戦争では、国民は非力のプレーヤーだった。

1905年日露戦争が終わって、「勝った」「勝った」と喜んでいるうちに、日本経済は戦後の不況を体験することになる。
資本主義化が、西欧に遅れること100年、まだ封建的身分制度を内蔵したままではあったが、足尾銅山、別子銅山鉱夫のストライキなど、各地で労使の対立は先鋭化し、1907年には、株式市場大暴落も経験している。
その一方で、金融資本の大陸進出はめざましく、日露戦争終結の翌年には南満州鉄道株式会社が設立された。

勝利の日まで

太平洋戦争がはじまったのは1941年で、日露戦争終結から、36年後である。
私事になるが、当社は創業からことしで36年、その間オイルショックにはじまりさまざまな事件はあったし、バブルやバブル崩壊も体験させられたが、おしなべてこの36年、日本は平和であった。日露戦争終結から太平洋戦争のはじまりまでの36年間には、思いつくだけでも、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争があり、ABCDラインから、真珠湾攻撃、日米開戦につながった。国内経済は、1914年の第一次世界大戦勃発時の株式市況の大暴落、1918年の米騒動、1928年を頂点にした世界的大恐慌に出くわしている。
きりは悪いが、百年来の大不況といわずに、八十年来の大不況といってもらえば、ピンとくるのだが、あるいはこんどの不況は1928年の不況どころではないのだろうか。

日中戦争のはじめのころは、国内は戦争景気に沸きかえった。
軍需景気で失業者は減少、人手不足から、国民の平均所得はアップ、「熟練工」は各社で引っ張りだこ、今に残る「家族手当」など労働対価ではない賃金が生れ、体系化されたのはこのころである。
それが太平洋戦争となり、本土空襲がはじまると、戦争ブームは一気に消し飛んだ。
長引く戦争と、空襲、物資不足、食料難、精神的にも参ってきた国民を一方で慰安しながら、さらに戦意を高揚しようと1944年内閣情報局は引き締め方針を転換させた。
上演を禁止し、閉鎖していた宝塚歌劇団に上演再開が許可され、昔ながらの華やかな舞台が、みられるようになったのはこのとき。
また、東宝映画は娯楽と戦意高揚をかけた超大作「勝利の日まで」を作成した。
「勝利の日まで」は前線の各地へ笑いの慰問団を砲弾につめて送り出すという筋はたあいのないものだが、主演の徳川無声と高勢実来らお笑いタレントをオールスターキャストで出演させ、なかなか豪勢な内容であった。
しかも、当時女性はもんぺ着用、男性は国民服を強制されていたのに、白いショートスカートの若い女優や背広姿の男優まで出演したから、かなりの転換である。しかし、戦意高揚は忘れなかったというより、忘れることは許されなかったといっていいだろう。
「勝利の日まで」での中で歌われたしりとり歌。
「敵は幾万ありとても」「桃から生まれた桃太郎」「おててつないで、野道を行けば、みんなか可愛い小鳥になって」「天にかわりて不義を撃つ」「月はかすむ春の夜の」「野毛の山からのーえ」「えーんやっさえんやっさ、波乗りこえて」ここからアタマにもどり、「敵は幾万ありとても」になる。歌ったのはオペラの巨匠藤原義江ほか。昔のファンにとってはなつかしのメロディーだったに違いない。上映館には空襲を気遣いながらも、行列ができた。
64年前のことだ。 この映画に出演していまも健在なのは、子役だった中村メイ子くらいか。「勝利の日まで」の翌年、日本はポツダム宣言を受諾した。

しりとり言葉としりしり歌

日露戦争後と太平洋戦争中の「しりとり言葉」「しりとり歌」を挿入させていただいた。実は「しりとり言葉」「しりとり歌」には「数え歌」などと同じように、その時代と民衆の気持ちがあらわれているからと江戸時代から、明治、大正、昭和の「しりとり言葉」「しりとり歌」を並べて、時代と世相をみるということで、資料を集めていたのだが、「しりとり言葉」「しりとり歌」を文字化したものは意外となかった。そもそも「しりとり言葉」「しりとり歌」は、口から口へ伝えられる伝承的なもので、記録されて文書に残る性質のものではない。しかもなんとか集めたもののうち、文句が卑猥で企業のホームページには掲載が不適当なものが大半であった。
ついでといっては何だが、明治、昭和ときたから、もひとつ江戸時代末期の「しりとり歌」を紹介させていただこう。

「ぼんち可愛いいねんねしな」「品川女郎衆は十匁」「十匁の鉄砲玉」「玉屋はおかわりすっぽんぽん」江戸の出入り口、品川の宿で歌われていたもので、それが博多どんたくのはやし歌になって今に残っている。
「品川女郎衆は十匁」の十匁は女郎のタイムチャージで通貨の単位。
「十匁の鉄砲玉」の十匁は重量の単位。
玉屋は鍵屋とならぶ代表的江戸の花火師。
しりとりは最後の文句の最後尾からまた頭に戻るのがルールだが、これだと「ぼんち可愛い」ではなく、「ぽんち可愛い」になる。品川のしりとり歌は博多入りにあたって家庭向きに変えられたのかも知れない。(K)

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